「釣れなくても楽しい」:熟練の釣り師が語る釣りの本質
長年の釣りの経験を経て、筆者は釣果への執着から解放され、「釣れなくても楽しい」という境地に至った心境の変化を考察しています。かつては釣れる魚の数や大きさを追い求めることに熱中していましたが、歳を重ねるごとに、釣りそのもののプロセス、つまり道具を選ぶ時間や、あえて釣り方を限定する「縛りプレイ」の中に、新たな喜びを見出すようになりました。これは単なる強がりではなく、釣りへの情熱がより深遠な形へと成熟した結果であり、人生における優先順位の変化が、釣りの楽しみ方にも影響を与えていることを示唆しています。
筆者は、自身のバス釣り歴を「ブラックバスに憧れ続けて30年以上」と表現しています。単に釣りを始めた時期から数えるのではなく、水辺に立てない期間も含めて、常に心の中にバス釣りへの想いを抱き続けてきたと語ります。多くの魚を釣り上げた実績があるわけではなく、むしろまだ見ぬ魚を追い求める時間の方が長かったといいます。それでも、水面を割る魚の気配や、憧れのアングラーの姿、そして出番を待つルアーたちは、筆者の心の奥底に深く根ざしていました。
「楽しさ」という感情は、他者に伝えるのが難しいものです。特に、「釣れない釣りの楽しさ」となると、その本質を理解してもらうのはさらに困難です。しかし、筆者はこの伝えにくい感情を、ルアーを投げ続ける行為になぞらえ、言葉を投げ続けることの重要性を説きます。最近、長年の友人と歴史ある人造湖へバス釣りに出かけた際、筆者はアンバサダーを手にトップウォーターのみを使い、友人は90年代のスタイルで釣りに臨みました。結果的に魚は釣れませんでしたが、帰路には不思議なほどの達成感が残っていたといいます。それはまるで、旅の価値が目的地ではなく同行者にあるように、今回の釣りも友人との時間や、天候、会話がもたらす総合的な体験が重要だったのかもしれません。
かつては、釣れないと仕事にまで影響が出るほど釣果にこだわっていた筆者。当時は、力の抜けた大人の釣りを「妥協」とさえ思っていました。しかし、今は釣りに出かける頻度も減り、狙う季節や釣り方まで限定するようになりました。これは「老化」と揶揄されるかもしれませんが、筆者にとっては情熱が冷めたわけではありません。むしろ、激しく燃え上がっていた炎が、時間をかけて穏やかな「熾火」に変わったような感覚だと言います。釣りたいという衝動や魚への憧れは失っておらず、ただその熱の向け方が変わったのです。釣果を増やすことよりも、自分が納得できる釣り、心に残る一日を過ごすことを重視するようになったのです。
筆者の道具選びは、実用性よりも「見た目重視」です。スペックを全く無視するわけではありませんが、最終的な決め手は「かっこいいと思えるか」「持っていて気分が上がるか」「その道具で釣りをしたいと思えるか」といった感覚的な要素です。ルアーもトップウォーターにこだわり、人気や釣果に直結するものではなく、「見た目が好きか」「水面に浮かべたときに気分が上がるか」という曖昧な基準で選んでいます。釣果だけを考えれば、もっと合理的な選択肢は無数にありますが、それでも水面に現れる魚を待ちたいという強い思いがあります。友人に「バカみたいなルアー」と笑われたこともありますが、筆者はそのようなルアーに夢を託し、何もない水面へ投げ続ける自分を案外気に入っていると語ります。ルアーを購入することは、単に魚を捕獲するための道具を手に入れるだけでなく、そのルアーがもたらすかもしれない「景色」を購入しているのだと筆者は考えています。夢を抱いて購入し、期待を込めてキャストする。この一連の行為そのものが、筆者にとっての釣りの醍醐味なのです。
見た目で道具を選び、トップウォーターに特化すれば、釣れる魚の数は減るでしょう。しかし、選択肢を限定したからこそ、「これで釣れなければ仕方がない」と心から思える一投は、より深く、充実したものになります。筆者にとって釣りとは、「制約の遊び」です。竿、糸、針という限られた道具と、決められた釣り方の中で一匹の魚を目指す。この不自由さをどこまで残し、どこを道具や技術で広げるかは、釣り人それぞれで異なります。テクノロジーを駆使して水中の状況を詳細に把握し、釣りの可能性を広げる人もいれば、限られた道具で一匹を目指す人もいます。最近では、これらの違いがどちらの釣りが優れているかという議論に発展することもありますが、本来は優劣ではなく、ただ面白さを感じる場所が異なるだけなのです。筆者は今、釣りの幅をあえて狭めることに面白さを感じています。これは「美意識」と呼べば聞こえは良いですが、身も蓋もなく言えば、自ら進んで不自由さを背負い込む、物好きなのかもしれません。
釣りに行ける回数には限りがあり、歳を重ねるごとに時間の使い方や体力も変化していきます。だからこそ、筆者は釣果を積み重ねることよりも、釣りそのものの時間を楽しみ、長く記憶に残る一日を過ごしたいと考えるようになりました。かつてはトップウォーターに惹かれながらも一度は離れた経験がある筆者は、再びトップウォーターの世界に戻ってきました。この心境は、宣言というよりも、今の自分の率直な「証言」に近いと言います。これはトップウォーター釣りの布教でも、釣りの幅を狭めることが大人の釣りだと主張するものでもありません。ただ、今の自分がたまたまトップウォーターの釣りを楽しみ、何も起こらない時間すらも愛おしいと感じている、その感情を書き残しているに過ぎないのです。筆者は自身を信心深い人間とは考えておらず、何も釣れない日が続けば、水面下の釣りに心惹かれることもあるかもしれませんし、インフルエンサーの影響で新しいルアーを購入することもあるでしょう。「釣れなくても楽しい」という感情は、多分に「痩せ我慢」の部分も含まれていると認めています。
魚が釣れなければ悔しいと感じ、トップウォーターが好きだとか、制約のある釣りが面白いだとか、後付けの理由で自分を納得させている部分もあるでしょう。しかし、あの時、釣れなかったにもかかわらず心から楽しかったという事実は揺るぎません。一日中投げ続け、何も釣れなかったにもかかわらず、帰路では「また釣りに行きたい」と強く思っていました。理屈は後からいくらでも付け加えられますが、「また行きたい」という純粋な感情は、後付けではなかったと確信しています。筆者は、自ら課した制約の中で釣りを楽しんでいるつもりですが、それが本当に自らの意志で選択した道なのか、あるいは年齢や生活環境に流されて、たまたま辿り着いた場所なのかは定かではありません。そして、その偶然や、もしかしたら妥協だったかもしれないことを、あたかも自らが選び取った美しい物語のように語りたがる自分がいることを、この記事が何よりも雄弁に物語っています。「トップウォーターは辛い」という言葉があるように、この釣りではめったに良い結果は出ません。たまに楽しい瞬間が訪れるだけです。筆者は今、まさにその稀な「楽しい」場所に立っています。それぞれの釣りには、それぞれの楽しみ方があり、もし他者が心から楽しそうに竿を振っていれば、筆者もきっとその釣りを真似するでしょう。その時は、どうか怒らないでほしいとユーモラスに結んでいます。