熊野古道中辺路:稲葉根王子跡から滝尻王子社への道程と富田川の歴史
平安時代中期に宇多上皇によって始まったとされる熊野詣、別名「熊野御幸」は、白河上皇や鳥羽上皇といった歴代の上皇たちによって繰り返し行われ、非常に盛んになりました。この巡礼は京都から紀伊半島の西海岸を南下する紀伊路を経て、田辺から中辺路を通って熊野三山へと至る壮大な旅でした。この記事では、前回の田辺市から中辺路の三栖王子、稲葉根王子跡に至る区間に続き、稲葉根王子跡から富田川沿いを進み、滝尻王子社へと向かう道筋を詳しく解説します。この道のりは、前半の富田川沿いの整備された道と、後半の「北郡越え」と呼ばれる古道から成り立っており、どちらの区間も道標がしっかりと整備されています。特に、富田川は「聖なる川」として信仰され、巡礼者たちにとって重要な意味を持つ場所でした。この歴史的背景と地理的な特徴が、熊野古道中辺路の魅力を一層深めています。
「聖なる川」富田川の巡礼と歴史
稲葉根王子跡の近くを流れる富田川は、かつて岩田川と呼ばれ、熊野御幸において神聖な存在として崇められていました。この地域は、熊野の霊域に入る前の重要な「水垢離(みずごり)」の場として位置づけられており、巡礼者たちはここで身を清めてから神聖な地へと足を踏み入れました。藤原定家による『熊野御幸記』には、岩田川を渡り、一瀬王子へ向かう記述があり、当時の巡礼の様子を窺い知ることができます。当時の富田川は、いくつかの浅瀬を渡る必要がありましたが、度重なる洪水によって川の流れは大きく変化し、かつての巡礼路を正確に辿ることは現在では困難です。
『平家物語』には、「流れを一度でも渡れば、悪行や煩悩、そして過去からの罪が清められる」と岩田川が紹介されており、上皇に随行する公卿たちは、服が濡れるのも厭わず川を渡ったと伝えられています。また、女院は二反の白い布を結び合わせたものにつかまり、多数の女官たちに囲まれて渡河したとされています。このことから、当時の人々がいかにこの川を信仰し、一度渡ることで全ての罪業が消滅すると信じていたかが伺えます。しかし、このような信仰心とは裏腹に、悲劇的な出来事も発生しました。鎌倉時代の公卿である藤原頼資の『修明門院熊野御幸記』には、後鳥羽院の後宮である修明門院が熊野を参詣した際、増水した富田川の渡河中に9人が溺死したという痛ましい記録が残されています。この史実は、聖なる川の持つ厳しさも同時に物語っています。